人生の豊かさとは

自らの価値判断について探求しない思考(マインド)というのは、世界をきわめて狭く、危険なものにします。世界を悪いものや悪い人たちで満たし続けなければならず、それにより、自らの苦しみをつくりだします。これまでに起きた最悪のことは、過去にしか存在しません。ということは、今はまったく存在していないということになります。あなたの頭(マインド)の中のストレスを生む考え以外は。

 よいもの、悪いもの、よい人、悪い人。こうした対立概念は、比較によってのみ、有効です。あなたにとって悪いと思えるものが何であれ、まだ十分わかっていないものがあるだけということはないでしょうか?現実においてはーその本質においてーあらゆるもの、あらゆる人が、あなたの価値判断をはるかに超えるところにいるのです。

タオを生きる---あるがままを受け入れる81の言葉

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  資本主義社会において、豊かであること、豊かに生きることとは、経済的にそうであることを意味する。平たく言えば、生活するお金に一生困らないということだ。だが、資本主義を支える根幹は金融つまり、借金と利子にある。その性質上利子は時間とともに増え続ける。よって生産者はもっと売って売り上げを伸ばし続けるなければ当然破産する。(個人でローンや借金をすれば、当然完済するまで働かざるを得なくなる。)

従って、何が何でも消費者にモノなりサービスなりを買わせる必要がある。当然消費者(生活者)は生産者によるマーケティングと言う名の洗脳によって、もっと良い(と思わされている)モノやサービスを買わされ、結果的に常にお金に余裕などない状態に陥ってしまう。

それはさておき、本来の人生の豊かさとは、人生経験におけるVariety(あるいはDiversity,多様性)を指すはずである。

その意味において、本来我々の世界はとてつもなく豊かであることに気付くはずだ。

その豊かさに気付かないということは、我々の思考(マインド)が判断(ジャッジメント)によりいかに分断されているかということを示している。

例えば、敬虔なキリスト教徒が中東に旅行したとしよう。彼(彼女)が絢爛豪華なモスクに観光として入り、その建築や文化などを楽しむことができようか。できるはずがない。いやそもそも中東という地域に旅行しないし、その中の国や文化の存在も認めない場合があるだろう。そして、その逆も然りである。分断された思考がもたらすBelief(信念)が人から人生の豊かさを奪う瞬間である。

 また、資本主義的豊かさが人生の本来の豊かさを奪う場合も多い。例えば、ここに100万を持つ2人の人間がいるとしよう。1人はお金がいかに大切かを認識し、最低限度の生活費以外は将来のために貯金することにした。もう一人は、愚かにも100万を一ヶ月の世界一周旅行にすべて費やしてしまった。当然前者は経済的にまだ余裕があり、後者は貧乏生活を余儀なくされるかもしれない。

さて、一ヶ月後その2人に出会ったとき、どちらから面白い話が聞けるだろう。どちらが人間として魅力的に映るだろう。そして、どちらの人生が豊かであっただろうか。(当然、何もない平凡な毎日からも大いなる豊かさ見つけることはできるが、この場合は例として除外。)

我々は蛇を怖れ嫌うがあまり、蛇の美しさから遠ざかってしまう。それだけでなく、ロープを蛇だと思い込んで、そのロープがもたらす恩恵を拒んでしまうのだ。

人、モノ、環境をジャッジメントするたびに、人生の豊かさを失ってはいないかと自らに問うてみるのも重要ではないか。