アファメーション ②have to vs want to

私たちが何かを「しなければならない、さもないと」と感じると、それを避けようと、非常にクリエイティブになります。人に対してやりたくないことを強制しても、最善をつくすことがないのはそのためです。自分自身に強要することもできません。自分をやる気にさせるのがむずかしいこと—体重を減らす、禁煙する、禁酒する、もっとお金を稼ぐーに関しては、間違いなくほとんどの場合、みなさんは自分を強要してそれをしようとしています。「しなければならない、さもないと」と、自分に言い聞かせているのです。

変わる事を自分に強いるのはやめましょう。自分が本当にそう望むのでないかぎり、無理に成長させようとしてはいけません。

 すべての目標は「したい」「選ぶ」「好む」の気持ちに基づいたものでなければなりません。生活の中から、「しなければ」をできるだけ取り除いてください。セルフトークから「しなければ」を追放してください。

「早起きをしなければならない」「食べなければいけない」「仕事に行かなければいけない」 と考えることを、自分に許してはいけません。それは真実ではないからです。人生に「しなければならない」はただ一つしか存在しません。それは、いつかは「死ななければならない」ということです。それ以外のすべてのことは自由意志による選択の問題です。

アファメーション

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ツイッターを始めてみる。瞬間の”気づき”を忘れないように。 

 

さてこれが、自己啓発本を何冊読もうが変われない人は変われない理由だ。変われない人は変われないのではなく、変わりたくないのである。なぜか?変わるのが怖いからである。

「しなければならない」というと、世間一般(特に日本社会)では責務を意味し、それが責任と連想される場合が多い。一方、「したい」というと子供じみた願望や我がまま、そして無責任と連想されてしまいがちだ。

だが実際は逆なのである。「しなければならない」という言葉の裏には、「本当は私はしたくないのだが、(上司や親や社会や国家などに)しなさいと言われたのでやります」ということを暗に意味している。もっと言えば、どんな結果になろうとも言われたことをやったまでで、責任は私にありませんよ。と、言っているのである。つまり、責任放棄の考え方であり、このことが精神的にどんなに楽かがわかるだろう。たとえ、それをするのが自分の本意でなくストレスに満ちた事であっても、結果に責任を持つことの恐怖に比べれば楽なものである。どうしようもない時は、居酒屋にでも行って愚痴をこぼしていれば、いくらかのストレスは発散されよう。

一方、「したい」ことをするとどうなるか。それは即ち、誰のせいでもなく、自分の責任だ。文字通り、自分でしたいことをしたのだから。失敗すれば、非難されるだろう、軽蔑されるだろう、嘲笑されるだろう、自分を見失い途方に暮れるかもしれない、路頭に迷うかもしれない。それでも結果に責任を持とうと思えるだろうか?よくよく自問してみることが重要だ。

 結局多くの人は自分の人生に責任など取りたくないのではないか。この精神は極端な例だとナチスヒトラー政権下のアイヒマンに繋がっている。東電など大企業などでしばしば起こる不祥事などもそうだ。一人一人の無責任が積もり積もって噴出するところに必ず悲劇や大惨事が生まれる。

 

組織の無責任の構造については下記参照。

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))