パニック・ボディ

パニック・ボディ。そう、身体がいまいろんなところで悲鳴をあげている。

身体というのは、もともとはひとがそれに身をまかせ、ぷかぷか漂っていられる船のような保護者のようなものであったはずだ。だから身体が故障したとき、わたしたちはまるで日頃のお返しをするかのように、ていねいに手当てをすることもできたのだ。が、その身体がそういう奥行きを失って、観念にあまりにも密着し、身体に固有の判断力や想像力を失いだしているような気がする。

身体の判断力だとか想像力といえば奇異に聞こえるかもしれないが、身体には(記憶力とともに)そういう能力があって、それがどうもうまく働かないようになっていることを、これから見ていこうと思っている。身体のあげる悲鳴に耳をかたむけること。そして身体のどんな軸が揺れているのか、身体はなぜじぶんを支えられなくなっているのか、それを考えること。これがここでの仕事だ。

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 身体を所有し、支配し、濫用する現代人への鋭い警鐘を鳴らす一冊。

世を見渡せば、人々の身体に対する扱いには目に余るものがある。拒食や過食、無理なダイエットに、薬物(合法非合法、そして医療共々)投与、刺青やピアスなどなど、身体の都合などお構いなしにいじめ尽くすのが現代人だ。

もはや生産の手段と化した現代人は、たとえ身体が休みを欲していようと日々の労働に向かわなければならない。それができなければ、怠け者、社会不適合の烙印を押されてしまうだろう。そしてそれらの恐怖から人はますます身体の声を無視し、酷使して行く。当然、身体は悲鳴をあげ続ける。様々な肉体的病気(癌や脳卒中、心臓疾患)や神経系の病気(鬱病)がそれらの代表だろう。そしてようやく、身体共々使い捨てにされて初めて気付くのだろう、一体何のための人生だったのかと。

人は観念がもたらす恐怖や不安、あるいは過度の欲望に縛られると、必ず対象を所有、支配しようとする、あるいはそれから逃避する。それは己の身体も同じである。そして所有や支配があるところに決して”愛”は存在し得ない。

身体を支配しようとするではなく、また身体から逃避するのでもなく、己と身体との関係性に注意を傾けることが大切だ。そして、身体の声なき声にそっと耳を傾けることだ。なぜなら、身体こそ最も身近な自然であり、引いては宇宙そのものなのだから。