探求の終焉

 

あなたの目の前にいる人が抱えた重荷ーあなたを完全にする人でいなければならないという重荷、あなたの完全性の脅威になりうる人でいる重荷ーから解放されるとき、その人はそのグルの地位から解放され、その人から想像上の完成されたパワーが奪われる。そして、そうなったときやっと、あなたは本当のその人という存在を見ることができる。パワー闘争がそこで終わり、心から、本心から人間として向き合うことが実際に可能になる。

私が追い求める必要性をもはやあなたへと転嫁していなければ、私はあなたの不完全さの中にあなたを見ることが自由にできる。ありのままのあなたを見ることができる。人間的な欠点、失敗の数々、弱点、悲しみ、痛みを見ることができる。ようやく、私が考えるあなた、または私が必要としているあなたではなくあなたという存在のままを愛することができる。あなたの感じる痛みの中、悲しみの中、不完全さの中、あなたの人間らしさすべての中であなたを愛することができる。役割を超え、ストーリーを超えたところでは、あなたが不完全であることが完全なのだ。

探求者が自分のグルに期待という重荷を与えるとき、同じような期待によって自分自身にも重荷を負わせることになる。私たちが誰かから何かを得ようと求めているとき、それが愛する人であろうが、友人であろうが、セラピストであろうが、親であろうが、スピリチュアル・ティーチャーやグルであろうが、政治家、有名人、あるいは指導者であろうが、私たちは彼らにありもしないパワーを与えているのだ。そして、そのパワーに縛られ、何らかの形で彼らに縛られ、拘束されて自由に抜け出すことができないように感じる。彼らから、ある種の不思議な、神秘的なパワーをかけられているような気になる。

探求者はいつでも、追い求めるものによって縛られる。グルこそが自由を完全にしてくれると信じていて、グルから立ち去ることができない。人はスピリチュアル・グルが自分にないものを持っていると本当に心から信じ、何かを手に入れることを心待ちにしながら、そのグルに何十年も付きまとう。グルだけを見て、グルが伝播して与えてくれるものやグルのお告げを待つことによって、自分自身の体験に対する信頼を失っていく。探求者は常に自分は正しいと認めてもらえるのを待ちながら、他の誰かの権威に頼って生きていく。グルから言葉によって、あるいは肉体的、精神的に虐待を受けているときでさえ探求者はなおもそこに留まり、自分の中にある疑いの声を必死に押し殺そうとし、「最後には報われて、求めてきたものが得られる」という望みに必死にしがみつく。

もっとも深いところで、すでに受け容れられている―普段の生活の中で根本的に目覚める

もっとも深いところで、すでに受け容れられている―普段の生活の中で根本的に目覚める

  • 作者: ジェフ・フォスター,河野洋子,坪田明美
  • 出版社/メーカー: ナチュラルスピリット
  • 発売日: 2015/10/22
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我々はいとも容易く、本来の自分ではないものに力を明け渡してしまう。引用にあるような人だけではない。お金や、モノ、あらゆる考え、信念、行動や活動、そして独立した”自己”として認識している我々自身に。それらがいつの日か私を完全にしてくれると期待しながら、八苦の重荷を背負って生きている。そしてそれらが我々を完全にしてくれるその日は決して来ないと、どこかで分かっていながら。

スピリチュアルな探求とて同じである。それらが提供する美しい概念(ワンネス、非二元性、引き寄せ、シンクロニシティアセンション、今に在る、等々)がいつの日か私のこの空虚な人生を完全にしてくると。探求を深めていけば、いつの日か私は悟りを開き、恐怖や不安、争いや分断のない完全性へと至ると。

安心してください。そんな日は決して来ませんよ(笑)。

真実というのは、あらゆる探求が終わる時にのみ見出されるものなのかもしれない。それはあらゆる探求が始まった時にも存在していたし、探求中であろうとも変わらず在りつづけるものであるのかもしれない。