エゴの熱的死

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続き。

エゴにとってのストレスや食事とはなにか。

それはつまるところ思考による判断(ジャッジメント)である。

否定的なジャッジメントがエゴにとってのストレスにあたり、肯定的なジャッジメント(賞賛)が食事である。どちらもエゴの成長には欠かせないものである。

ポジティブシンキングに効果がない理由がこれで理解できるはず。ポジティブシンキングは、エゴに対してストレスを与えるのを避け、食事を与えようと言っているのだが、結局はエゴにとってはストレスも食事も同じ”栄養”であるため、結局それが目指している幸福感には至らないし、したとしても全く長続きしないのだ。それは結局エゴの成長を助長させているにすぎないからだ。

さて、ある考えや信念に対してネガティブな判断を加えてみよう。あるいは、人から自身の大切な信念やアイデアを正面から否定された時を想像してみよう。エゴは自分の存在が脅かされ、危機を感じ、あらゆる手を使って反論し、正当化し、怒り、脅すことで、自らの正しさを証明しようとするはずだ。

いや、むしろ否定されればされるほど、エゴは生き生きとしてくるのがわかるはずだ。所謂”逆境”とよばれる状況、そしてそれに抵抗し、克服するというストーリーが大衆にウケるのもこれとまったく同じ理由だ。逆境とはエゴが身勝手に作り出した理想が現実によって否定されることにほかならないからだ。

例えば今でいうと米国の正義が、それを脅かすテロリズムを必要するのも同じメカニズムである。その他、エゴが適度な危機(ストレス)が大好きなのは前回の本書の引用通りで、例を挙げるときりがない。

先ほどの比喩でいえば、エゴという熱を帯びたエネルギーの構造体がエントロピーの増大による熱的死に抵抗するためには、ある程度のストレスによって刷新していかなくてはならないということだ。

一方、エゴはポジティブなジャッジメントも大好きである。成功、権力、お金、出世、学歴、高価な車や大きな家、これらすべてはエゴを肥大化させるには十分な豪華な食事である。

本来それらのモノやステータスそのものに何か不思議な力があるわけではなく、全く中立的なものにすぎない。にもかかわらず、多くの人がそれらを求めてやまないのは、それらが自身のエゴを肯定的にジャッジメントし(賞賛)してくれる象徴だと(集団心理として)見なしているからにほかならない。それらを過度に求める人をよく観察してみると良い。その心理の奥には必ず無尽蔵の承認欲求(欠乏)が見え隠れするはずだ。

よって多くの人にとっては、嗜む程度にエゴに適度なストレスと食事を与えて上手に付き合っていれば、それなりに一生を楽しく過ごせるというわけだ。

そして、問題はそれ以上を望むかどうかだ。ここからは個人の選択の問題になってくる。どちらが良い悪いの問題ではない。

では古今東西、所謂”悟った人”(ブッダ)と言われる人々のエゴはどうなっているのだろうか。我々凡人と違って、何らかの才能によりエゴを消滅させることができた偉人なのか。いや、そうではないはずだ。

そういう人たちは、これまでの記事で書いてきた通り、例えるなら、エゴという構造体がエントロピーの増大則により、熱的死している状態、あるいはあらゆる考えや信念が瞬時に生じては瞬時に熱的死するということを繰り返している人のことなのだ。

ではどうすればそれが可能か。もう既に上の例に答えが出ているが、それは、エゴにストレスも食事も与えないということ、つまり、肯定するのでもなく、否定するのでもなく、ただあるがままのエゴを観察し深く理解することなのだ。お風呂のお湯がどのように変化していくかただ観察するのだ(決して追い炊きボタンは押さないように(笑))。

え、ただ観察して、理解するだけ?そんなバカな。と我々は思う。我々は、問題に対して常になんらかのソリューションの考案や行動が必要不可欠だとあまりにも社会的に洗脳されているためだ。それが、ただ”観る”ということにすべてのソリューションが含まれているなんて、ズル以外の何物でもないではないか。でもこれがなんとも難しいのだ。

やってみる価値はあると思う。その後に世界や人生がどのように変容するか見てみようではないか。