退屈とともにある

人間は普段、第二形式がもたらす安定と均整のなかに生きている。しかし、何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるときがある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。そのときに、人間は第三形式=第一形式に逃げ込む。自分の心や体、あるいは周囲の状況にたいして故意に無関心となり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それがすきだからやるというより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 少々結論の内容が薄くて残念、というよりも、結論はあってもなくてもよかったといえるほどそこにいたるプロセスで十分楽しめる一冊であった。

 

偶然今読んでいるKrishnamurtiの本に同じテーマがあったので一部引用をしておこう。

Question: I am not initerested in anything, but most people are busy with many interests. I don't have to work, so I don't. Should I undertake some useful work?

Krishnamurti: Become a social worker or a political worker or a religious worker- is that it? Because you have nothing else to do, therefore you become a reformer! If you have nothing to do, if you are bored, why not be bored? Why not be that? If you are in sorrow, be sorrowful. Don't try to find a way out of it, because your being bored has an immense significance, if you can understand it, live with it. If you say, "I am bored, therefore I will do something else", you are merely trying to escape from boredom, and , as most of our activities are escapes, you do much more harm socially and in every other way. The mischief is much greater when you escape than when you are what you are and remain with it.

First and Last Freedom, The

First and Last Freedom, The

質問者:私は何にも興味がもてません。しかし、ほとんどの人々は多くの関心事で忙しくしています。私は働く必要がないため、働いてもいません。何か有意義な仕事に取り組むべきでしょうか?

 

クリシュナムルティソーシャルワーカーになる、政治活動家になる、それとも宗教活動家となる、それだけですか?

あなたは外に何もすることがない故に”改革者”になるというのです!

もしもあなたが退屈しているなら、退屈なままでいてはどうですか?そして退屈そのもので”ある”ことはできませんか?

もしあなたが悲しみに暮れているなら、その悲しみとともにありなさい。それから逃れようと努力してはいけません。

退屈があなたにとって大きな意味があり、それを理解できるのなら、それとともにあるのです。

もしあなたが「退屈なので、何か他のことをします」という時、あなたは単にその退屈から逃避しているにすぎないのです。そして、我々の活動のほとんどはこの逃避行為でしかないため、様々な方法で社会に害をもたらしているのです。

そしてその逃避行為による悪影響は、あなたがあなたである時、あなたが退屈とともにある時よりもよっぽど大きなものとなるのです。

(日本語訳 by T-Fund)

いつの時代も、偉大な知性から放たれる言葉は、 人の心の闇に光のように突き刺さるものだ。