幸いなるかな、快楽をもとめることのできる人

 退屈する人間は興奮できるものなら何でももとめる。それほどまでに退屈はつらく苦しい。ニーチェも言っていた通り、人は退屈に苦しむのだったら、むしろ、苦しさを与えてくれる何かをもとめる。

  それにしても、人が快楽などもとめていないとは驚くべき事実である。「快楽」という言葉がすこしかたいなら、「楽しみ」と言ってもいいだろう。退屈する人は「どこかに楽しいことがないかな」としばしば口にする。だが、彼は実は楽しいことなどもとめていない。彼がもとめているのは自分を興奮させてくれる事件である。

 これは言い換えれば、快楽や楽しさをもとめることがいかに困難かということでもあるだろう。楽しいことを積極的にもとめるというのは実は難しいことなのだ。

 しかも、人は退屈ゆえに興奮をもとめてしまうのだから、こうも言えよう。幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である、と。楽しさ・快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心からもとめることができることこそが貴重なのだ。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 人の不幸は蜜の味ではないが、我々は日々ニュースを見て、殺人などの事件や他国の紛争、また悲惨な事故や自然災害に至るまでをくまなくチェックする。

それらは決して身の回りで起きているわけでもなく、またそれを見たからと言って何らかのアクションを起こそうというわけでもないのに、それらを好んで見てしまうのは、それが己の日常の退屈さを一瞬でも忘れさせ、非日常の興奮を仮想体験させてくれるからに違いない。

誰も得をしないような破滅的な戦争がなぜ繰り返されるのか。極論としては、結局人間が退屈に耐えられないからかもしれない。事実、世界中の人々がおとなしく家で過ごしていれば、戦争など起こせようはずがないではないか。