暇と退屈への恐怖

大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だということである。食べることに必死の人間は、大義に身を捧げる人間に憧れたりしない。

生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 久々の更新となってしまった。

本書はまだ読み始めたばかりで何とも言えないが、テーマが興味深かったので手に取る。

確かに、我々は日々の労働に追い回されている時、働かずとも生きて行ける状態に心底憧れるものだが、実際にそうなった時、本当に幸せであるかどうかを考えることは少ない。

忙しさに日々愚痴をこぼしながらも、人間は実は暇や退屈を心底恐れているのではなかろうか。社会が豊かになり戦後などと比べるとほとんどの人が働かずとも豊かに生きられる環境があるにも関わらず、自ら望んで奴隷のような生活を好む人が後を絶たない理由は実はここにあるのかもしれない。

戦後日本人は、その日を食いつなぐために必死に努力し、経済発展のためにすべてを犠牲にし働いてきた。だが、必死に働かなければならない理由や大義があるだけで彼らは十分幸せだったのではないか。

今、我々(特に若者)はそこまで没頭するほど仕事をせずとも生きて行ける。これはかつての日本人が憧れ、目指して来たところに近い状態である。

ところが、我々は暇や退屈をどう楽しめば良いか、どう向き合えば良いかをまったく知らないどころか、それらの状態を逆に不幸だと感じてしまう傾向がある。半生を会社に捧げて退職後抜け殻になる者、いつまでも会社にしがみつく名誉職の老人たちが後を絶たないのも当然だ。

一方、先進国の若者たちが次々とイスラム国の軍事活動に参加しているのが問題となっている。マスメディアでは、先進国社会に対する不満のはけ口として若者たちがそのような行動をとっているのではないかと言っているが、もしかしたら上記引用部分のほうが的を射た分析なのかもしれない。

どうやらこのテーマを通して世の中を見てみるのも一興のようだ。しばらく続けよう。