相対的幸福感に踊る人生


映画『クィーン・オブ・ベルサイユ』公式サイト

ドキュメンタリーは面白い。現実に勝るドラマはないとは良く言ったものだ。

思うところはいろいろあるが、やはり人が感じる物質的な幸福感というものはどうあがいても相対的にならざるを得ないということだ。というのも人間というのは絶対的な価値を計る能力をそもそも備えていないからなのだ。つまり、人は常に比較によってでしか物事の価値を判断できないようにできており、これは行動経済学などで有名なアンカリングの罠として実証されている。

これは別途取り上げるとして、本映画は、米国のとある富豪が100億相当の自宅を建設途中リーマンショックに見舞われ、会社の資金繰りが悪化、その家も建築途中で抵当流れとなり、家族もこれまでの贅沢三昧の生活から一気に”極貧”生活へと追いやられるというドキュメンタリーだ(当初は富豪の成功物語にする予定だったそうだ)。

面白いのは、彼らが苦境だと感じている今の生活は客観的に見れば、おそらく世界の99%の人々よりも裕福で、何不自由のない生活なのだ。だからと言って、彼らの心情を馬鹿にしたり、非難したりするのはナンセンスだ。なぜなら、彼らの環境は過去と比べて相対的に確実に”貧しく”なっているからだ。おそらく彼らの苦しみと、中流層が突然会社を解雇され経済的苦境に陥る苦しみはほぼ同じであると言える。

物質的幸福感が相対的で比較の上で成り立っている以上、より上を目指す欲望に際限はなく、また下に落ちて行く苦しみと恐怖も無限だ。我々人間はこのような上にも下にも際限のない無間地獄を右往左往している哀れな生き物であるとも言える。

そこで重要な問題が一つ。我々は比較なしに生きることが可能か?ということだ。 テーマが少々重いのでこれもまた別の機会にしよう。

もう一点は、この手の起業成功没落物語は同じパターンが存在する。それは、景気の良い時期に、銀行から低金利でお金を借りて拡大し、金融危機などに端を発する不況で資金繰りが悪化し破滅するパターンだ。その時、彼らは決まって銀行に恨み節を放つ。好景気の時は頭を下げてまでお金を貸したのに、不景気になったとたんあっさり融資を断り、血も涙もない鬼のように貸し剥がし、人の人生を破滅させる、と。

しかし、この非難は不当と言わざるを得ない。銀行からお金を借りる決定をした瞬間、この資本主義経済ゲームに参加表明したはずであり、参加した以上そのゲームのルールに従って人生が左右されるのは当たり前のことである。その自覚もなくゲームに参加をしたとすれば、それはあまりにも無知だったと言わざるを得ないではないか。

とは言え、銀行のやっていることを肯定するわけではない。どんな奇麗事を並べても銀行業務は一種の詐欺であることに間違いない。ほぼ100倍のレバレッジをかけて、中央銀行が作った原価ほぼ0(昨今は電子化されているため)のお金を受け取り、それに価値があるかのように見せかけ(洗脳)て、無リスクで貸し出し(最終的に政府が資金(=税金)援助するため)、利子は満額で受け取ることのどこがイカサマでないというのだろう。

だれかの資産は必ず他の誰かの負債である。銀行から無理な借金をするというのは自ら望んで奴隷となり、人生を騙し取られるようなものだ。

ただし、レバレッジというのは諸刃の剣であるため、銀行も使いようでもある。金融危機を乗り越えて成長しているベンチャーは必ずここを把握しており、最初から潤沢な自己資金(エンジェル等も含む)があったか、もしくは自己資金に対する借入比率を絶妙に押さえているはずだ。

しかし逆にこれを知っておけば、借金をすることを過度に恐れる必要もないと言える。所詮はイカサマから始まったお金、返す義務など最初からないし、返すふりをして(金利だけ返済し続けて)好きな事をやるのも良いだろう。失敗したら破産し、社会的制約を少々被るかもしれないが、それがなんだと言うのか。破産もこの資本主義ゲームの手続きの一つにすぎない。それによって人生云々などと考える必要はないし、それでも幸せに生きる方法は山とあるはずだ。

 

BISや中央銀行、そしてその使い走りである銀行が仕掛けるイカサマゲームについては下記を参照されたし。

マネーの正体

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 起業家 失敗物語は下記あたりか。

私、社長ではなくなりました。 ― ワイキューブとの7435日

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