空と矛盾

仮に人間をテューリング・マシンと仮定すると、数学的真理に到達する数学者の思考も、一定のアルゴリズムに基づくものになります。その場合、ペンローズによれば、数学者全員が同等の普遍的アルゴリズムにしたがう必要があります。でなければ、数学者は、彼の論理を他者に伝達することもできず、数学の普遍性も説明できないからです。

ところが、一個の人間としてのゲーデルは、その普遍的アルゴリズム自体に対する不完全性定理を証明し、他の数学者もその帰結を理解することができます。この点をペンローズは矛盾とみなし、人間はテューリング・マシンではないと結論するわけです。

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

シリーズ三部作の1冊目。

架空の登場人物によるディベート形式で読みやすく、内容が濃い割にはコンパクトに纏められている。空いた時間に読むだけで、上質な暇つぶしができる。それにしても、本書でのカント主義者(架空だが)の扱いには笑ってしまった。あと、急進的フェミニストのヒステリーにも。

 

つまりは、いかなる論理や物理も、任意の理性的なシステム(系)は必ずパラドックス(矛盾)やランダム性を含むことになり、完全なシステム(つまりは”神”)は存在し得ないということである。

自己矛盾に苛まれる若者よ、案ずる事なかれ。我々が住む宇宙というシステムも、システムとしての我々自身も実は本源的にパラドックスとランダム性で成り立っているのだから。

さらに、引用にあるように、我々は単に矛盾を抱えた理性的システム以上のものだということも、その限界を証明したことによって逆説的に証明されたということだ。つまり、システムが、それ自身に矛盾を抱えているということを証明できるということは、そのシステムを超えているからこそ可能ということである。

まだ幼い子供が完全に自己矛盾に陥っているにも関わらず、理不尽な要求をしてくることがよくあるが、子供自身は矛盾には気づいておらず、それを外から見ている親しか証明できないのと同じだ。(まぁそれでも大概の場合、子供が自分の要求を押し通すのだから、ある意味これも理性の限界を違う意味で証明しているのかもしれない。)

 じゃ宇宙や、小宇宙と言われる人間は、理性以上のなんなのよということになるが、ここからの問いへの答えは、今のところ東洋哲学に求めざるを得ないか。

最も胡散臭い天才(と私が考える)苫米地氏曰く、

しかし、宇宙を束と見たとき、上は閉じていないのです。

実は東洋哲学は閉じていると考えています。

では、任意の二つをとって、その共通の上位概念とは何でしょうか。有機物と無機物があった場合、有機物より情報量が少なくて、無機物より情報量が少ないもの。つまり、有より少なくて無より少ない。

答えは「空」です。有でもあって、無でもあるとは、釈迦が発した「空」の定義以外のなにものでもありません。

この東洋哲学の考えを入れることで、宇宙の上界も閉じたことになります。そして、改

めて定義すれば、宇宙とは情報量の多寡で並べ替えることができる包摂半順序亜束である、もしくは束である。

束として見るのであれば、「空」をトップとして、「矛盾」をボトムとした、包摂半順序束であるということになります。

苫米地英人、宇宙を語る

苫米地英人、宇宙を語る

空の概念についてはここでは省略しよう。 

上記の真偽は別にして、西洋哲学が抽象度の低い方へ低い方へ突き進んで矛盾とランダム性にぶつかり、東洋哲学が釈迦の悟りをピークとして、抽象度の最も高い「空」という概念に行き着き、今正に両者が相見えつつあるという構図もなかなか興味深い。