意識はCEO

そしてこの一世紀にわたって、神経科学は意識が船の操舵手でないことを示してきた。宇宙の中心から転落してわずか四〇〇年後、私たちは自分自身の中心からも転落したのだ。本書の第一章で私たちは、意識による内部メカニズムへのアクセスは緩慢で、まったく起こらないことも珍しくないと知った。そのあと、私たちが見る世界は必ずしもそこにあるものではないことを学んだ 。すなわち、視覚は脳がつくるものであり、その唯一の務めは(たとえば、熟した果物やクマや仲間との)相互作用という尺度で役立つ話をつくることである。錯視はさらに深い概念を明らかにする。つまり、私たちの思考も自分で直接アクセスできないメカニズムによって生成されているのだ。有益なルーチンは脳の回路に焼きつけられ、いったんそうなると意識はアクセスできなくなる。その代わり意識は、何を回路に焼きつけるべきか目標設定をするようだが、それ以上のことはほとんどしていない。

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

 本書では、意識は無意識の領域にほとんどアクセス権限を持っておらず、ほとんどの動作のみならず、思考までもが意識の及ばない神経ネットワークにより処理され、意識は無意識が作り上げた最終結果の報告を得るだけに過ぎないとしている。しかも、意識はそれだけでは飽き足らず、その結果に対して好き勝手な理由付けを行うようだ。

たとえば、恋人のどこに魅かれたかを問うた時、それは無意識的な判断(DNA的相性、フェロモン、性欲等)の結果であるにも関わらず、意識では優しい、思いやりがある、顔が好み等々の理由付けをする場合である。

また腕を動かそうと意識した時より1秒も前に脳では既に腕を動かす神経が実際に活動しているそうだ。つまり、私たちが意識的に行っていると思っている行為もすでに脳が先にそうすべく動いてしまっているのだ。そうなると自由意志というものが人間にあるのかという問題になってくる。脳神経科学では今のところ、何かをするという自由はないが、何かをしないという自由意志はあるだろうと苦し紛れの仮説でとどまっているようだ。

つまり脳が何かをしようとしてから、意識が喚起され、実際にそうするまでの刹那に、それに対する拒否権だけは意識は所有しているのではないかということだ。

意識に与えられた役割は、人が考えているよりもかなり限定されているのは紛れもない事実のようだ。では余計なことは考えず無意識に任せて生きていけばよいのだろうか。

著者は意識をCEOのようなものだとしている。これにはなるほどと頷ける。CEOは全体の目標を設定し、各部門を同じ方向に向かわせる。各部門の日々の詳細な業務などいちいち把握せず、それぞれの部門からの結果だけを受け取り評価する。意識もこれと同じ役割があるというわけだ。

野球などプロのスポーツ選手は高度に自動化された無意識のプログラムを駆使している。でなければ150キロの速球をあんな短距離から打ち返すことの説明は不可能だ。

それでもプロもあり得ないようなミスをする時があるが、そういう場合はおそらく意識が無駄に介在してしまった場合が多いはずだ。これは現場レベルの仕事に事細かく指示を出し組織を混乱させるやりたがり社長の例だ。

なんの目標も設定せず現場のやりたいままに任せる無責任社長(所謂ニート)や、部門の声に耳を貸さず一人で突っ走って組織をだめにする熱血社長(鬱病はこのパターン)などもいることだろう。

意識を持った我々人間は、皆生まれながら自分自身のCEOだったというわけだ。どんなCEOであるかは人それぞれであっていいだろう。その選択こそが自由意思なのかもしれない。