アウシュヴィッツ化する世界

年齢、境遇、生まれ、言葉、文化、風習が違う人々が何万人となく鉄条鋼の中に閉じこめられ、必要条件がすべて満たされない、隅々まで管理された、変化のない、まったく同じ生活体制に従属させられるのだ。たとえば人間が野獣化して生存競争をする時、何が先天的で何が後天的か確かめる実験装置があるとしても、このラーゲルの生活のほうがはるかに厳しいのだ。

 人間は根本的には野獣で、利己的で、分別がないものだ、それは文明という上部構造がなくなればはっきりする、そして「囚人」とは禁制を解かれた人間にすぎない、という考え方がある。だが私たちには、こうした一番単純で明快な考え方が信じられないのだ。むしろ人間が野獣化することについては、窮乏と肉体的不自由に責めたてられたら、人間の習慣や社交本能はほとんど沈黙してしまう、という結論しか引き出せないと考えている。

  極悪非道な加害者ヒトラーと哀れな被害者ユダヤ人という単純構造で、この歴史的悲劇に蓋をしてしまってはいけない。

 例えば、IBMなどのアメリカ企業がナチスを経済的に支援していたこと、ナチスを支えるドイツ企業の大株主にユダヤ富豪が多くいた事、また本来ユダヤ人の解放を目的とするはずのシオニスト運動主導者であるユダヤエリートたちが、ナチスユダヤ人抹殺政策を支持していた事実はよく知られている。何よりも、ナチスの台頭を望んだは多くの大衆であり、その台頭を許したのは周辺諸国や米国などの不干渉主義や宥和政策である。

 私が大企業に勤め毎日満員電車に詰め込まれていたころ、有名なV.E.フランクルの『夜と霧』を読み、当時の自分の置かれた状況とアウシュヴィッツと本質的に何が違うのかまったく分からなくなったものだ。

 そこでは、疲れと不快感で顔を歪めるもの、肩がぶつかった等で罵り合う者(暴力や殺人にまで発展する場合すらある。)、見ず知らずの女性に猥褻な行為をはたらく男性、僅かなカネ目当てに痴漢冤罪を利用し男性の人生をいとも簡単に狂わせる少女、絶望とともに列車に身を投げるもの、など数々の地獄絵図が展開される。それでも、今日も誰も何も言わずに同じ列車に揺られ、日々の労働に向かってく。

 現代のグローバルな単位で人が生産のための機能と化していく様、マスメディアを通して情報が統制されていく様、生き残りを賭けて騙し騙されを繰り返す様、また金融資本に翻弄されゆく生命を見るにつけ、アウシュヴィッツで起こったことが決して単なる歴史的一事象では済まされまい。

 そう見ると、アウシュヴィッツがこれから世界を舞台に起こるであろう人間模様の、歴史的な実験場だったと考えられなくもない。

 

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録